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BLUE RECORD#033('98.7.1 RELEASE)

『〜感動は死んではならない〜』

 今年は、ブラジルでボサノヴァが生まれてちょうど40年周年を迎えた記念すべき年だ。40年前、バスルームでその新しいビートを産み出したジョアン・ジルベルトは、かの有名な『Chega de Saudade(シェガ・ジ・サウダージ、邦題は「想いあふれて」)』という曲をレコーディングした。その日から、40年の月日が流れたのである。

 そして、先日『ボサノヴァギターの神様』バーデン・パウエルが来日。6月1日(月)には岡山市民会館でコンサートを行い、ギターを通して岡山の人々に様々なメッセージを贈ってくれた。

 今年で60歳を超えるバーデン・パウエルのコンサートは、その巧みなギターテクニックでぼくたちを魅了するだけでなく、そして単にブラジルという国を伝えるのでもなく、ブラジル人の心の奥底に流れている“ブラジル人のルーツ”までも感じさせてくれる素晴らしいギターを披露してくれた。

 彼はパリを中心に海外での生活が長かったにもかかわらず、生粋のリオ・デ・ジャネイロっ子で、心の底にはしっかりとブラジルが流れていた。ぼくは彼のステージを食い入るように見据え、本当にリアルに心の底からそう感じてしまった。

 コンサートが進むにつれて、ボサノヴァ、バイアォン、ショーロのナンバーまで、これが本当のブラジルだといわんばかりに、彼はギターの弦をたたいていた。コンサートの最終曲を終え、バーデンが立ち上がった瞬間、満席の観客たちが惜しみない拍手を贈っていた。彼は岡山のファンに対し感謝の気持ちをあらわしたが、それはまた、そこにいた観客たちの気持ちと全く同じものだった。

 コンサート当日の楽屋で、ぼくはバーデンと話をする機会を得た。ヨーロッパでの生活が長かった彼は、数年前にブラジルへ戻って再び独自の音楽活動をはじめたわけだが、ブラジル音楽の現在の状況をたずねると、「非常に混乱した時代に突入している」と語ってくれた。彼の言う「混乱」という言葉の意味は、良いものも悪いものも全て混在しているということだ。そこには、ブラジルという国が音楽に対して豊かだという証も、世界一だという意味も含まれている。

 近年のブラジルでは、経済が安定し、開放の度合いも大きくなり、多くの情報が入ってきている。それは、音楽に敏感な若者を活気づけ、若者に大きなチャンスを与えている、と教えてくれた。

「毎年、夏になると、また新たな音楽が誕生している」というくらい、近年のブラジル音楽の世界には“大きな動き”が常にあるという。もちろん、ボサノヴァ音楽のシーンもその例外にもれず、“BOSSA NOVISSIMA(ボサ・ノヴィッシマ)”と呼ばれるほどの活気に満ちあふれているそうだ。

「NOVISSIMA」とは「NOVA(新しい)」という単語の最上級であり、つまり「最も新しい傾向」、という意味を表現している。したがってバーデンは、「ブラジル音楽のシーンは混乱している。しかし、それは音楽シーンそのものが不安な状態にあるという意味ではなく、将来に対して非常に大きな期待を持てるほどに、明るい状態にある」と教えてくれたのだ。

 そんなブラジル音楽の世界で、バーデン・パウエルはこれまでどおり国内外での活動を精力的に行っており、近い将来には、彼の息子たちとともにアルバムを共作して発表するらしい。ぼくたちファンは、作品のリリースが待ち遠しい限りだ。

 バーデンは、自分自身の音楽に対する姿勢、音楽ファンに対する基本的信念であろう言葉を残してくれた。最後に、その言葉をみなさんに聞いてもらいたい。

『Emocao Nao Pode Morrer(エモサォン・ナォン・ポージ・モヘール)』。つまり、「感動は死んではいけない」。

 それを聞き、ぼくは早速感動させてもらった、鳥肌を立たせながら…。

「大昔、わたしは、自分のおばあさんが持っていたギターを盗み出した。そしてそれを、こっそりと自分のベッドの下へ、大切に隠していた…」という秘話から始まった、彼の音楽人生。ぼくは、目の前で優しく語りかけてくれるバーデン・パウエルと過ごした時間に、言葉にしがたい重みを感じていた。本当に最高の夜だった。

 ありがとう、バーデン。「Muitoobrigado...」

TEXT/平松 伸行(NOBRAIZ MUSIC

※取材協力/岡山音響, EXOTIC PLANNING, NOBRAIZ MUSIC


バーデン・パウエル 〜プロフィール〜

●1937年、リオデジャネイロ州にて生まれる。8歳でギターを手にし、ショーロ(ブラジル発祥の都市型インストルメンタル音楽)を習い始める。10歳でカーニバルのサンバチームに入団し、パーカッションを担当。

●15歳で、プロデビュー。19歳で、最初のヒット曲「サンバ・トゥリスチ(悲しみのサンバ)」を作曲。そのころトム・ジョビン、ジョアン・ベルベットらと出会い、初期ボサノヴァ作品を多数レコーデングする。

●1962年、詩人ヴィニシウス・ヂ・モライスとの共作を数多く作曲し、ジャズ・フルート・プレイヤーとして知られるハービー・マンのレコーディングに参加。'63年には、パリに赴任したヴィニシウスに呼ばれ、ヨーロッパ各地でコンサートを開催。'64年にはブラジルに帰国し、半年間、黒人文化の色濃いバイーア州(北東部)での生活を送る。その地で「ビリンバウ」「シャンゴーの歌」「オサーニャの歌」等、アフロ宗教に基づく作品をヴィニシウスとともに共作している。

●'66年には、過去の集大成ともいえるアルバム『アフロ・サンバ』をリリース。フランスから来たピエール・バルーと知り合い「祝福のサンバ」を作曲したのもこの年。ちなみに、ピエールがフランス語の歌詞で歌った「祝福のサンバ」は、映画『男と女』のサウンド・トラックに収録されている。

●'80年代半ばまで、活動の拠点をパリに移す。ヨーロッパでの精力的な活動を続け、世界的名声を得る。その間、多数のジャズメンたちと共演。

●'89年には18年ぶりの来日も果たしており、その後は健康上の問題から音楽活動を一時休止。

●'95年、モントリオール・ジャズ・フェスティバルにて復活。今なお世界中のギタリストたちに賞賛され、ボサノヴァという言葉だけでは計り知れないほどの広い音楽スケールで、独自の世界で人々を魅了している。