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BLUE RECORD#044('99.6.1 RELEASE)


Photo by Fujiko Ito

 「BluesCityが唄いはじめたの。横須賀のドブ板通りにある、とても小さなライヴハウスで…」と、WEBサイトBluesCityを管理するJUNKOがぼくに教えてくれた。

 中村裕介は、横浜・横須賀で“東京-メジャー”に対抗する“強さ”を備えたインディー・レーベル、BluesCityを旗揚げしたアーティストであり、骨太なハード・ブルース・ロック・バンドF.E.N.(Far East Native)のリーダーとしてもその名を知られている。恰幅のいいタフガイ的な風貌にはレスポールがよく似合い、ブルーズをうたうときの野太い声が印象的だ。スタンドマイクに向かって肉声を叩きつけるようにしてうたっている瞬間の中村裕介には、実直でストレートな魅力がある。商業ベースに乗せるため、がんじがらめの制約の中で曲を書き、それを、ブラウン管を通すとかっこよく決まるロックもどきなポーズでうたっているわけでもなく、ましてやえせシンガーを気取っているわけでもない。中村裕介のスタイルは、単にストレートなだけの代物だ。ストレートに「横須賀がおれのホームタウンだ」とうたい、「To the same old place BluesCity Yokosuka」と口ずさむ。今も昔も、ブルースマンはそれだけで十分じゃないか。が、ストレートに自分のうたをうたえ、ストレートに自分の言葉で語れるブルースマンは、そうざらにいるわけではない。

 CHICAGO BULLSの赤いボストンバッグに4日分の着替えと、PowerBook2400と、一眼レフのカメラを詰め込んだぼくがJR新横浜駅にたどりついたのは5月9日の正午だった。改札を抜け短い階段を降りると、空は嫌になるほど青く、泣きたくなるぐらい暑かった。真夏の様に照りつけてくる太陽の下、重いボストンバッグを抱えたまま知らない街を歩くのかと思うと、いきなりヘビーな気分になった。改札口の周辺にはコインロッカーさえ見あたらなかった。7日、8日を東京で過ごしたぼくは、いつもバッグをコインロッカーに入れていた。横浜にはコインロッカーがないのか? 駅前のくせに、タクシーの1台も停まっていない。しかも、高層ビルも見あたらない。4車線の道路もない。タバコの自動販売機もなければ、コンビニエンスストアもない。呆気にとられながら、地べたに座り込み、5月6日の夜にJUNKOが送ってくれたE-mailをプリントアウトした用紙をバッグから取り出した。メールにはこう書いていた。

 JR横浜線「新横浜駅」を、バスターミナル側に出て、駅前の大通りを真直ぐ行き、「鳥山大橋」という橋を渡ったら左に曲がり、(右手には大きな「労災病院」)、そのまま川(鳥山川)沿いに信号を1つ過ぎるまで行くと右手に「総合リハビリテーションセンター」があり、さらにその先に「障害者スポーツ文化センター」があります。その建物の中に「横浜ラポール」があります。

 ぼくの目の前にはバスターミナルもなければ、駅前の大通りというやつもなかった。それもそのはずだ。ぼくは、JUNKOメールで教えてくれた改札口の間反対側の改札口に出てしまっていた。休憩所から出てきた駅員さんに「横浜ラポールに行くには、こちらの改札口から出てはいけなかったんですよね?」と訊ねてみると、「横浜国際総合競技場に向かっていけば、大丈夫ですよ。数百メートルおきに競技場の方向を矢印で書いた看板が立っていますから、その通りに進んでください」とのこと。ぼくは安心して歩きはじめた。駅員さんが教えてくれた通り、曲がり角には親切な矢印看板が立っていた。さすが横浜だ、でかいアリーナのある街は違うな、と感心しつつ歩いてはいたものの、やはりバッグが重い。しかも、永遠に歩き続けなければならないのかと思えるほどラポールが遠く感じられた。adidasを穿いていてよかった。いつものトニーラマだったら、きっと歩道の隅っこにへたりこんでいたに違いない。

 12時30分。ラポールには、ライヴがはじまる1時間以上前にたどり着けた。13時からの開場にもまだ余裕があった。入場チケットは前売りの時点で既に完売しており、当日券は残っていない。インディー・レーベルの主催するライヴが、こんなでかいホールで行われ、しかも前売りの時点でチケットが完売するなんて素晴らしいじゃないか。ホールの入り口に立ちすくし、まるで自分事の様に感慨に耽ってしまった。

 マールボロを吸いながらしばし時間をつぶし、入場の手続きを済ませたぼくは、ロビーに腰をおろし、安堵のため息をついた。が、落ち着けない。入場手続きをしていた最中目にした関係者リストの最上段に、ハマのブルース・キング、エディー藩の名前を見つけていしまったのだ。YOKOHAMA HONKY TONK BLUESを書いた彼があの入り口から入ってきて、このロビーを歩いてきたらどうする? すぐに立ち上がっておじぎをしなければ…、などと真面目に考えてしまった。そうこうしてる間に、ロビーには観客が流れ込んできた。この群衆の中でエディー藩を見つけだすのは不可能だなと諦めたぼくは、ホールの2階へと向かった。2階にはライヴステージを収録するためのカメラがセッティングさせれており、その周囲には様々な機材が並べられていた。一般客の立ち入りは禁止となっていた。ぼくは白い鉄の手すりにつかまり、ホール1階のフロアが次第に観客で埋め尽くされてゆく様を眺めていると、キュートな女性が話しかけて来た。目が合った瞬間、それがJUNKOだと確信できた。

 彼女はストライプの模様が織られた夏用のコットン帽子を被り、デニム地の半袖シャツにブーツカットを穿いていた。実直な目の光がとても印象的で、その眼光は彼女のい首元で光っている太いシルバーのチェーンよりも眩しかった。JUNKOと出会ったのはその時がはじめてだったのだけど、昨年の夏にWEB上で知り合ったぼくらは、デジタルを仲介にE-mailでの会話をしていた。「はじめまして」とお互いに挨拶を交わすことさえ、なんとなく照れくさかった。オンライン上で見たアメリカン仕様のバイクに跨っている写真の中の彼女と、リアルタイムで目の前にいる彼女。そのどちらもが本当の彼女ではあるのだけど、ぼくのイメージの中のJUNKOは革ジャンバーを着て風の中を疾走していた。薄暗いホールの中、屈託のない笑顔を見せてくれる彼女を前に、ぼくはとても不思議な気分だった。

「父にはもう会えましたか?」と訊ねてくるJUNKOに、ぼくは首を横に振って答えた。開場時間間際に楽屋付近をうろついてはみたものの、まだ中村裕介には会っていない。共演するシーナ&ロケッツのメンバーにもTORAME(トラメ)のメンバーにも会っていない。「わたしが来たとき、ちょうど父が入り口の近くでタバコを吸っていたんだけど…」。開演までのひととき、ぼくとJUNKOは横浜の街の話をし、BluesCityが主催したライヴの軌跡について語り合った。今回のライヴは『WAKE UP』と題されており、通算74回目のBluesCityライヴだった。

1999年5月9日横浜ラポールシアターにて開催された「BluesCity2001-Live Vol.74 WAKE UP」

 「BluesCityが唄いはじめたの。横須賀のドブ板通りにある、とても小さなライヴハウスで…」そのJUNKOの言葉がぼくの胸に突き刺さった。ちょうど1年前、アメリカのインディー・シーンの重要人物の一人であるダブ・ナルコテック・サウンド・システムのヴォーカリスト、キャルヴィン・ジョンソンを取材した夜のことを思い出した。彼は'80年代の初頭に『K』というオリジナル・レーベルを立ち上げ、自身のバンド、ビート・ハプニングを率いてアメリカの音楽シーンに出現した。バーコードで管理されたメジャー・シーンの流通機構に頼らず、独自のスタイルでワシントン州シアトルから世界へとアルバムの流通システムを確立していったアーティストだ。その独特のステージアクションにおいては、ベックやジョン・スペンサーにも影響を及ぼしている。そのキャルヴィン・ジョンソンがうたいはじめたのもまた、場末の小さなライヴハウスだった。

 インディー・レーベルBluesCityを立ち上げた中村裕介は自己のホームページの中で昔を振り返り、こう記述している。「“何がやりたくてここまでやって来たのか”私たちは大切なものを“食うため”に置き去りにした。…私たちは明らかに“回り道”をしたのだ」と。ロックを巧みに利用し、吸収し、骨抜きにしてしまった音楽ビジネス。その世界から高額なギャラを貰い、自己崩壊していった自分自身に、彼は怒りを露わにしている。メジャー・シーンを非難するのは簡単だ。が、彼はメジャーを非難することからではなく、まずは自分自身を恥じ入ることからはじめた。結果、活動の場をインディー・シーンへと移して行ったのだ。“有名アーティストが登場しなくてもいい。ロックが真にロックだった時代のように、アーティストたちと人々が出会える街、BluesCityを築きたい”それが中村裕介の放つストレートなメッセージであり、人生をやりなおそうと覚悟した彼の見つけ出した純真なスタイルでもあるのだ。

 照明が落ち、満席の客席からわき上がる拍手に迎えられ、TORAMEが登場した。2ndステージはシーナ&ロケッツだ。ラストシーン、鮎川 誠の紹介で中村裕介がステージに立った。嵐のような歓声がホールを包み込み、「BluesCity Yokosuka」のブルージーなギター・リフがはじまった。曲の合間には、BluesCityという歌詞が出てくる。その部分が来ると、観客から「BluesCity」とコーラスが入る。

 ドブ板の小さなライヴハウスからはじまった、BluesCityライヴ。そこには、'70年代に置き去りにされてきた、アーティストたちの齧りかけの夢のかけらが詰め込まれている。今回、横浜ラポール内の障害者スポーツ文化センターでロック・コンサートを開催するということには大きな意味があった。ホールには車椅子で駆けつけて来たファンの姿も目についた。ホールそのものが、まさに“アーティストたちと人々が出会える街”なのだ。そこに集う人々の聴きたい唄は、有名アーティストのうたう歌謡ロックではなく、ブラウン管から流れている流行歌でもない。泥の中を転がり続けてきた無骨な男の唄う、横須賀ドブ板ブルースなのだ。

TEXT/HAJIME YONEDA(marlboro@bluerecord.com

協力/有限会社 ウオーターカラーエンタープライズ


  • BluesCityのホームページには、BluesCityに参加しているARTISTたちのライヴスケジュールやアルバム情報をはじめとする多彩なプログラムが用意されています。
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  • 中村裕介率いるF.E.N.(Far East Native)のライブ映像を、Realplayerでお楽しみください。
    じゃー、サービスで1曲。名曲「
    もっと強いジンをくれ」を聴いて、キミも泣いてくれ!!(YONEちゃんより)

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