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Let's keep on Bluesin' !!!

BLUE RECORD#042('99.4.1 RELEASE)

 ぼくの仕事場にはシルバータイプのF50というYAMAHAの古いギターアンプが置いてあり、その側にレッドサンバーストのSG2000が立てかけていて、その背面の壁全体に粗末なレコードラックが並んでいる。ラックの中にはLPレコードを滅茶苦茶な順番で放り込んでいるから、聴きたいアルバムを探し出すのが一苦労だ。それでも、ブルースのコーナーだけは比較的きちんと整理させれている。ブルースをよく聴くからブルースのコーナーが整理させているのではなく、去年一年はあまりブルースを聴かなかったからそのコーナーのレコードの出し入れの回数が極端に少なく、一昨年の暮れにきちんと整理したままの状態でキープされているのだ。

 不思議なもので、BLUE RECORDのHOMEPAGEに訪問してくれる男性の多くはブルース・ファンで、初めてのビジターからもらうメールの文末には「最近、どんなのを聴いてるんですか?」という質問も多い。この場合の“どんなの”とは“どんなジャンルの”という意味ではなく、“どういうブルースマンの”という意味であって、ほとんどブルースを聴かなくなったぼくにとって、それはかなりヘビーな質問なのだ。「いや、最近はちょっと…」とレスを返すと、「1枚を選べと言う方が難しいですよね。すいません」と謝られたこともあり、その時は思わず恐縮してしまった。

 が、今年は年明けからブルースをよく聴いている。シカゴ在住のブルースマン、菊田俊介さんとのE-mail対談企画がスタートしたからだ。毎日聴いていると、ブルースそのものが日常化して来る。今ではブルース・ギターのチョーキングを聴かないと仕事をする気分にすらなれない体質になってしまった。菊田さんに宛てた最初のメールに、恐る恐る「ぼくはそれほどブルースに詳しくないし、ブルース同様に他のジャンルの音楽に対しても専門的に詳しいわけではないんです。それでも取材を受けてくださいますか?」と書いた数日後、「yoneちゃん(^^)。返事が遅くなって申し訳ないっす」とのレス。E-mail対談を前に緊張度200%でコチコチ状態だったぼくは、“(^^)マーク”を見た瞬間、急速にリラックス・モードへと突入していた。


E-mail対談, シカゴ〜日本

marlboro@bluerecord.com (yone-chang Wrote)/Tuesday, 12 January 1999

 菊田さんは、'85年に武蔵野音楽学院に通いながらボストンのバークレー留学の準備をし、翌年バークレーに留学しジャズを学んでいますね。'90年にはシカゴに移住し、ストリート・パフォーマンスの許可証を発行してもらいストリートでブルースを歌い始めるというところから自己の音楽スタイルを確立していると思うのですが、それはぼくたち一日本人から見ればかなりヘビーな冒険のように思えました。バークレー(ジャズ)からシカゴ(ブルース)へ移住しようと決断するまでの経緯と、シカゴのストリートで歌い始めた当初の心境を聞かせていただけますか。

shun@bluesox.com (shun wrote)/Mon, 18 January 1999

 まず、バークリーには19歳の時に留学しました。最初はやはり英語にすごく戸惑い、失敗もたくさんしましたよ。ただ、寮のルームメイト(アメリカ人)がすごくいいヤツで、彼がいろんなことを教えてくれたし、彼のバッファロー市の実家にも何度も招待してくれて、こちらのクリスマスやサンクスギビングなども体験できました。そいういう意味では出だしから恵まれていたかもしれません。ブルースに出会ったのはバークリーに入って2年目くらいだったかな。友達の一人が、ブルースが好きでBBキングの「ライブ・アット・リーガル」を聞かせてくれたのがきっかけでした。かなり衝撃的なブルースとの出会いでしたよ。あのアルバムのBBは歌、ギターともに絶妙のプレーで、感情表現がじつに大胆かつ細やか。僕の心の琴線に触れたというんでしょうか。ちょっとキザだけど(^^)。それ以降はブルースにどっぷりハマりましたね。あのころよく聞いていたのはアルバート・コリンズ、スティーヴィ・レイ・ヴォーン、ジョニー・ウィンター、アルバート・キングあたりかな。みんなテキサスや南部の人なのに、なぜかシカゴが僕の頭にはイメージとしてあった。とんでもない勘違いっすね(^^;)。

 おかげで卒業の前年('89年)はいよいよシカゴに遊びに来ました。ここで最初に見たのが<レジェンズ>をオープンしたばかりで張り切っていたバディ・ガイ。まあブルースの概念がめちゃめちゃに壊れた(^^)。こんなことやっちゃっていいの?みたいな強力なステージで。やっぱシカゴはすごいわ(^^)っていっぺんに思った。もうこの時点でシカゴに移住は決めていました。

 '90年8月にバークリーを卒業して、ボロのスバルに荷物を積んでシカゴまでドライブ。すぐにユダヤ人のコンドミニアムで月200ドルっていう安い家賃で間借りしました。日本食レストランでのバイトも始まって、生活もぼちぼち軌道に乗りはじめた頃に、レイオフ(クビ)され、路頭に迷う寸前に知り合ったミュジシャンに誘われてストリートでやることになったんです。この時はクリスマス前で、街中が浮かれているから、みんな小銭をバンバン投げ入れてくれて、けっこう儲かったんですよ。こりゃいいやって思ったんだけど、おいしい話しはいつまでも続かないって人生訓はここでも通用した(^^)。年が明けるといきなり収入が減って、まる1日演奏しても数ドルにしかならなくて、ピザとドーナツかなんかを食って生きていましたね。ただ、シカゴに来たばかりで、これからやるんだ、頑張らなくちゃっていう前向きの気持ちを持ち続けられたのがよかったんでしょう。日本に帰ることは全然考えなかったですよ。

 昼はストリートでなんとか日銭を稼いで、夜は毎晩のようにブルース・クラブに行き、ジャム・セッションに参加していました。ここでいろんなミュージシャンに知り合い、プレーを重ねて、落ち込んだり、勇気つけられたりしながら上達していったんだと思います。

marlboro@bluerecord.com (yone-chang Wrote)/Sunday, 24 January 1999

 ぼくたち日本人が、雑誌 等のメディアを通して触れる菊田さんのシカゴでの音楽活動にはとても華やかなイメージがありましたが、やはり現実にはシカゴでの生活がはじまった当初からいきなり恵まれた環境が用意されていたわけではないのですね。むしろ、先人が踏み込まなかった未踏の地にギター1本で飛び込んでいかれたわけですから、メールに書かれていない様々な苦労や葛藤があったのだと思います。

 でも、「これからやるんだ、頑張らなくちゃ」という気持ちで生活していた菊田さんにとっては、苦労や葛藤という実感はなかったのかも知れないな、とも思います(^^)。がむしゃらになって、スコップ(ギター)を担いだまま道を開拓してる最中は「今、苦労してるよ」という感覚ではなく、「とにかくやらなければ」という気持ちが全てですよね。

 ローザズという名前のブルース・クラブでしたか、そこで菊田さんはシカゴ・ブルースのルイス・マイヤーズとギグをするチャンスを手にしましたね。後日、菊田さんが「現在の僕のプレーはこの時学んだこ とが基本になっている」とホームページに書かれていましたが、ルイス・マイヤーズの弾くギターというのは、当時の菊田さんにとってどういう存在だったのですか? また、シカゴ・スタイルのブルース・ギター以外に、彼から学んだことも多かったのですか?

shun@bluesox.com (shun wrote)/Monday, 8 February 1999

 前回のE-mailでも書きましたが、シカゴに来て僕はすぐにストリート・ミュージシャンになりました。そして昼はストリートで日銭を稼いで、夜はギターを担いでいろんなブルース・クラブに行くのが習慣だったんですね。そこでいろんなバンドに飛び入りさせてもらったわけですが、なかでもローザズ・ラウンジに一番入り浸たっていたし、ジャムも多く参加しました。この店のママ・ローザとトニーのマンジューロ親子はイタリアからの移民で、同じ異国人の僕にすごくよくしてくれたんですね。毎週月曜のジャムに通うようになってからは「いつもジャムに通っていれば、誰かがかならず声をかけてくれるから頑張れ」と励まされて…。

 シカゴに移って3ヵ月くらいした頃でしょうか、当時ローザズでは毎週日曜に、ルイス・マイヤーズがレギュラー出演していたんですが、彼がセカンド・ギタリストが欲しいっていうんで、トニーが僕を推薦してくれたんです。そこで、ルイスととりあえず一度演奏することになりました。最初にルイスに紹介されましたが、彼は僕を一瞥するとすごく蔑んだ目で見るんで、かなりビビりましたよ(^^)。きっと、若僧で、しかも東洋人なんで「なんだこいつは」っていう感じに思ったんじゃないかなあ。で、とにかく打ち合わせもなくいきなり本番(こっちのバンドはほとんどがリハはやらないのです)。ステージ上でなんとかルイスに合わせて彼の邪魔をしないようにリズムをつけるんですが、なにかぎこちないのが自分でもよくわかるんですね。この当時の僕はずっとBBキングやアルバート・キングなんかを聞いてきたこともあって、シカゴ・ブルースのスタイルをよく理解していなかった。しかもルイスのやるブルースはほとんど初体験でした。ルイスもしまいには痺れを切らしたのでしょう、ステージ上で僕に向かって「ここはこうプレーするんだ。そうじゃない!」みたいなことを大きな声で怒鳴りはじめちゃって。しかもお客さんがいるのに(^^;)。僕も恥ずかしさと屈辱感でステージをそのまま降りたかったけど、なんとかルイスの言うようなプレーをして(といってもすぐにできるもんじゃないですが)その場をしのぎました。

 終った後、これでおれはもうクビだろうな、と思っていたらなんとまた来週もやれという話しになって、それから家に帰って、ルイスやシカゴ・スタイルのテープやCDを聞き漁り、すごく勉強しましたね。結局ルイスはその3ヵ月後に車の事故を起こしてほとんど引退してしまうのですが、その間ルイスのスタイルはすごく盗んだし、シカゴに来てから一番集中して勉強させてもらいましたね。

 ルイスの、あるいはシカゴ・ブルースのスタイルって、掛け算九九、あるいは方程式のようなもので、一度その基本やルールを学ぶといろんなところで応用できるっていうのがあります。当時僕がルイスから学んだことはまさにそのルールであって、それ以降いろんなバンドでプレーしましたが、特にシカゴ・スタイルのバンドではかなり役にたちましたよね。ただし、ルイスよりもずっと新しい世代のブルースマン達になると、ファンクやR&Bもがんがんやるので、こちらはまたそのスタイルをしっかり把握しなければいけまんせんでしたね。そういう意味でとても勉強になったのは、最初のCDを一緒に作ったベーシストのフランク・コーリアとやってからですね。これについてはまた次ぎに書きましょう。

marlboro@bluerecord.com (yone-chang Wrote)/Sunday, 21 February 1999

 詳細なメールをありがとうございました。

 >ルイスの、あるいはシカゴ・ブルースのスタイルって、掛け算九九、あるいは方程式のようなもので、

 >一度その基本やルールを学ぶといろんなところで応用できるっていうのがあります。

 という一文がとても印象的でした。ブルースに限らず様々なジャンルの音楽に言えることだと思うのですが、ミュージシャンは自己のスタイルを確立してゆく過程で、その音楽のルーツ的な部分を自身のスタイルのベースに取り入れて、そこに新しい表現の手法を加えつつ音を完成させて行きますね。結果として、それがオリジナリティであって、そのオリジナリティそのものが、また次の世代のミュージシャンによって継承されて行く。これは、とても素晴らしいことだと思うんです。人の人生にも似ていますね。今ぼくの魂のコアにある何かは、ぼくが自分のオヤジやオフクロ、あるいはお爺さんやお婆さんから無意識の内に受け継いだものだったりしますからね。菊田さんがルイス・マイヤーズから受け継いだSOMETHINGは、すでに菊田さんの中で消化吸収され現在の「菊田スタイル」の一部になっていると思うのですが、そのスタイルそのものが次の新しい世代のギタリストに引き継がれて行ったり、語り継がれて行くのでしょうね。

 ベーシストのフランク・コーリアと共に作られたアルバムというのは、キングレコードから最初にリリースされた『ファンキー・ブルース』ですね。菊田さん御自身がプロデュースを担当されたというお話ですが、レコーディング当時の菊田さんの心境等を、日本人ブルースマンとしての立場からきかせていただけますか?

 また、「シカゴ・ブルース・ナイト・バンド」に参加されたことに関してもおたずねしたいのですが、菊田さんの音楽人生において、シカゴ・ブルース・ナイト・バンドでの経験はとても重要な契機になったのでは? とぼくは思っています。ぼくたち日本の音楽ファンにすると信じられないぐらいの規模でツアーをされているし、B.B.KINGと同じステージにも立っていますからね。大変失礼な言い方をすると、「OH!!! やったな、菊ちゃん!! ついに、そこまで行ってくれたのか!!」という気分になってしまいました(^^)。この当時の菊田さんご自身の心境も教えてください。'90年代の前半には日本の出版社や新聞社、また世界的なアーティストたちがシカゴに出向いて菊田さんを取材をしたり、菊田さんのステージを観ていましたね。菊田さんにとって、'90年代前半というのはどんな時代だったのでしょうか?

shun@bluesox.com (shun wrote)/Tuesday, 3 March 1999

 >ベーシストのフランク・コーリアと共に作られたアルバムというのは…

 やはりこのアルバムは僕の事実上のデビューになったアルバムのなので、やる気と不安が半々くらいだったでしょうか。特に僕がプロデュースをするにあたって、バンドリーダーのフランクには気を使ったというか、一つずつキングの希望や方針を説明して理解してもらうのに苦心しました。あと、このアルバムにジュニア・ウェルズが2曲ゲスト参加してくれているんですが、彼ほどの大物が参加してくださるのはとても嬉しかった反面、スタジオに姿を現すまでは、彼が本当に僕らのレコーディングをやってくれるのか不安で仕方なかったですね(^^)。当日スタジオに来なかったらどうしようとか余計な心配もしましたよ。でも、実際にスタジオに現われたジュニアは本当にノリノリで、その場に大きな花が咲いたように雰囲気が華やかになって、「ああやっぱりジュニアってスターなんだなあ」ってしみじみ実感しました。僕も今まで多くのブルースマンに会って、共演もしてきましたが、ジュニアほどスター性のあるブルースマンにはお目にかかったことがないですね。

 アルバムのレコーディング自体は、普段やっている音をそのまま入れればいいというのもあったんで、作業はすごくスムーズにいきました。特に「ファンキー・ブルース」に参加してくれたのはシカゴでもトップのミュージシャンばかりだったし、リズムトラックは1日で録りました。

 >「シカゴ・ブルース・ナイト・バンド」に参加されたことに関してもおたずねしたいのですが、…

 これについてはまったくの偶然なんです。この時僕はまだシカゴに来て半年目くらいで、トミー・マクラッケンというシンガーのバンドでやっていたんですね。そしたら、プロデューサーのシカゴ・ボーが日本の会社からアルバムをプロデュースするというので、トミーと、彼のバンドを使いたいということになったわけです。で、たまたまそれに参加することになっちゃった。それが「シカゴ・ブルース・ナイト」だったんですね。そしたら、次の夏にはこのバンドでイタリアに1ヶ月のツアーに出ると。そしてタトーリ市のブルース・フェスで、BBキングの前座だ、と。もう僕の知らないところで話しが進んでいて、僕はたまたまそれに乗ったということですよね。でもこのバンドでは結局1枚アルバムをやってイタリアにツアーしてそれで終りました。本格的にツアーに出たのは'95年にジュニア・ウェルズのバンドに入ってからです。

 「シカゴ・ブルース・ナイト」に関しては僕は単なる雇われミュージシャンだったし、アルバムのプロデュースに関わったわけじゃないので口は挟めませんでしたが、あそこはこうすればよかったのになあ、とかいろんな思いはありましたね。生意気なようですけど、ブルースっていうのはその一瞬にしかないフィーリングというか、臨場感が生々しく出ているのが特にライブでは大切だと思うんですが、だからといって何の下準備もなしにぶっつけ本番で、とやっても決していい結果はでないと思うんですね。そこまでにいかにいい音で撮るかに腐心するのはとても大切だと思うんですよ。いい音にするためにベストなエンジニアと器材を使おう。ミュージシャンは誰がいいか。それらのミュージシャンを生かすために曲はどれにするか。リハーサルはどのへんまでやればいいのか。など前もって考えられるものは全て考えておく。で、実際のステージで録音が始まったら、それまでの予習を全て忘れてその一瞬の音楽を楽しみながらかつ、真剣に音を作り上げていく、というのが理想の作業だと思うし、そのどれかが欠けてしまえばしまうほど、クオリティの低い音になってしまう、と思うわけです。時間と労力をしっかりかける、というのはレコーディングのクオリティにそのまま反映されるんですね。「シカゴ・ブルース・ナイト」では、その時間と労力(プロデュース)をしっかりやればもっといいものができたろうな、という気持が正直あります。

 でもこのバンドでのイタリア・ツアーは思いで深いものはありました。あちらではアメリカからのバンドというとスター級の扱いで、サインは求められるしおいしいものも食べさせてくれるしね(^^)。かわいい女の子とも会えるし、とてもよかった。BBキングのステージをステージのそでから見れたのも感激でした。

 >菊田さんにとって、'90年代前半というのはどんな時代だったのでしょうか?

 個人的にいえば、'90年代前半はミュージシャンとしての基礎作りの時期だったでしょうね。自分でもこの頃が一番伸びたと思うし。とにかくいろんなところから吸収しました。今でももちろんそうなんですが…。

 >「世界的なアーティストたちが シカゴに出向いて菊田さんを取材をしたり、

 >菊田さんのステージを観ていましたね」…

 これは、僕がシカゴで名の通ったブルース・クラブ「キングストン・マインズ」や「バディ・ガイズ・レジェンド」にレギュラー出演していたこともあって、ミック・ジャガーやマイケル・ジョーダン、ダン・アイクロイドなどが店に来たことはありました。アルバムを出すようになってからは、アメリカのブルース雑誌「リビング・ブルース」はじめ、一通りのブルース誌には記事にしていただきましたし、アメリカ以外にも香港から「ウォール・ストリート・ジャーナル」の記者が取材に来たりしてくれたこともありましたね。日本からは「デニム」の読者記者や編集の方、カメラマンなど総勢8名でわざわざ僕の取材に来てくださったのも思いだされます。最近では、日本から僕を見に来てくれるブルースファンも増えて、それがとても励みになっていますよ。

marlboro@bluerecord.com (yone-chang Wrote)/Tuesday, 9 March 1999

ジュニア・ウェルズのお話、とても興味深く読ませていただきました。実は、ぼくが最初に買ったブルースのCDは'72年にバディー・ガイとジュニア・ウェルズが共作した『Play The Blues』という作品でした。そのアルバムの2曲目に、Williamsonの書いた「My Baby She Left Me」という曲があって、ぼくはそのタイトルからイメージをふくらませて、「Bye Bye Blues」という曲を書きましたよ。今度、時間のあるときにダウンロードして聴いてみてください(うーん、恥ずかしい!!)。

 今回ぼくが送信するこのメールが、今回のE-mail対談の最後の質問になります。ひとつの企画に、こうして2ヶ月近く時間をかけたのははじめてですから、とてもいい思い出になりそうです。菊田さんには連日のライヴと雑誌連載の原稿執筆の合間に時間を割いていただいてとても感謝しています。

 ではでは、また質問させてください。'90年後半から現在に至る菊田さんの音楽活動およびブルース・シーンに関するお話をうかがいたいと思います。'96年にはチャーリー・マッセルホワイトのバンドでオーストラリア、ニュージーランドツアーに参加され、その後、ココ・テイラーやビリー・ブランチ、エデ ィー・ショウ 他のビッグ・アーティストをゲストに迎えて2ndアルバム『シカゴ・ミッドナイト』をリリースされましたね。'90年代後半は菊田さんの存在が世界的に浸透し、多くのビッグ・ミュージシャンたちとステージやレコーディングを経験された時期だと思うのですが、一時帰国して日本でのステージも体験されていますね。菊田さんのブルースを日本でパフォーマンスされたときの感触はいかがでしたか? また、菊田さん御自身が、今後日本のブルース・シーンに望んでいらっしゃる展開があればお聞かせください。ぼく自身は、「いよいよ日本もブルースの時代かな」と勝手に思い込んでいたりするのですが(^^)。

 あと、菊田さんの今後の活動予定なのですが、ぼくたち日本の音楽ファンには「早く菊田さんのステージを日本で観たい」という気持ちがあります。雑誌等のメディアを通して目にすることの可能な菊田さんの書かれたコラムや紹介記事だけでなく、ギターを弾いている姿をリアルタイムで目の前で観たい、そのサウンドを全身で体感したいという気持ちが強いのですが、現時点で日本での活動予定はないのですか?

shun@bluesox.com (shun wrote)/Monday, 15 March 1999

 僕の存在が世界的に浸透してなんて、そこまでまだ実感はありませんが(^^)、確かにチャーリーやジュニアらといろいろビッグ・ステージでのツアーを経験できたのは大きかったと思います。やはり百聞一見にしかずって言いますけど、まさにその通りで実際にいろんな街で演奏をすることでシカゴにはないそれぞれの土地が持つ雰囲気やお客のノリや店の空気みたいのを体験できました。特に今でも印象に残っているのは、テキサスのオースティンにある「アントンズ」でやった時のこと。ここはテキサス・ブルースのメッカとも言える店ですが、とにかくお客が熱い!。最初から最後まで盛り上がりっぱなし。“うわーこれがテキサスか”ってお客に圧倒された覚えがあります。あと、ロスの「ハウス・オブ・ブルース」はハリウッドという土地柄、一般客に混じって映画関係者も多くて、モデルのようにきれいな女の子がやけに多いのが嬉しかったっすね(^^)。この店ではブルース・ブラザーズのダン・アイクロイドやハーモニカのリー・オスカーなどにも会いました。

 日本はブルース・ファンに限らず音楽の聞き方がやはりアメリカとは違います。アメリカではお客も音楽に参加する、という意識がすごくあって、曲に合わせて踊ったり歌ったりよくするんですが、日本の場合はもっと音楽鑑賞的な聞き方がまだ一般的なじゃいでしょうか。そういう意味で最初はこちらにも少し戸惑いがありましたが、慣れてくると特には気にならないですね。日本のお客さんはしっかり聞いていますしね。

 今僕が日本のブルースシーンに望んでいることは、

(1)まずミュージシャン(プレイヤー)について。

 とにかくブルース人口が増えて欲しいということです。最近、山崎まさよしやゆずの影響でアコースティック・ブルースを聞く若い人が増えているそうですが、きっかけはなんでもいいから多くの人にブルースに接して実際にプレーしてほしい。そうなることで、ブルースの底辺が広がっていくしシーンが膨らむことでライブの機会も増えるし一般リスナーのアテンションも得られると思うんですね。僕もそうなるお役にたてれば嬉しいですが、僕一人じゃどうしようもないですから。

(2)リスナーについて。

 ブルースのファンというのはえてしてファナティックで閉鎖的な人が多いように思います。「'50年代、'60年代のシカゴ・ブルースが最高」というような。もちえろんそれはそれで素晴しいんですが、今の現在進行形のブルースもしっかり存在しているわけで、とにかくいろんなものを聞く柔軟な耳を持って欲しい。あとは自分の感性で素直に楽しんでもらえればいいですね。

 これからブルースファンになる人にはとにかくいろんなブルースを聞いてすごく好きになってほしいですね。ブルースは悲しくジメジメしたもの、という先入観を持たずにブルースに接すればいいものに出会えると思っています。ブルースにはノリがよくて力強くて、包容力があって楽しいものもたくさんありますしね。

 >あと、菊田さんの今後の活動予定なのですが…

 はい。今のところ9月に来日ライブを予定しています。場所はまだ未定ですが、東京、大阪そして僕の地元宇都宮では最低やりたいな、と。できれば名古屋、京都、福岡あたりにも足をのばせれば、と思っています。みなさんにもぜひ見に来ていただきたいです。シカゴ現地直送のフレッシュでホットなブルースをお届けしますので。楽しみにしていてください。また、8月にはリットー・ミュージックのほうから、ブルース・ギターのクリニックとバディ・ガイズ・レジェンドでのライブを収めたビデオが発売になる予定です。こちらのほうも楽しみにしていてください。

 ということで、この企画をたててくれたYoneちゃんはじめ、アクセスしてくれたみなさんありがとう。近いうちにみなさんにお会いできるのを楽しみにしています。

Let's keep on Bluesin' !!! From 菊田俊介

Photo by Mitsuko Todoroki

Thanks to Blue Sox, Yutaka Yokoo(Yesterday's Papers), Eudora Pro,


 3月18日(木)、E-mail対談の全データをまとめ、お互いの表現ニュアンスが極力変わらないよう配慮しつつ部分的な校正を入れ、その全文をhtmlファイルに変換してWEB上にアップロードした。それは一般公開用のファイルではなく、ぼくの校正したデータを菊田さんに確認してもらい、さらに校正箇所を指摘してもらうための確認用ファイルだった。約12時間後、シカゴからレスが届いた。

 「訂正箇所はありません。僕もすごくいい経験になりました。どうもありがとう。これからもまた一緒になにかやれるといいですね。楽しみにしています。お互い、次にやるときには新たなものが出せるよう日々楽しみながら頑張っていきましょう。Good Luck!!! 菊田俊介」

 次にやるときには、また新たな展開をテーマにしたい。という菊田さんのスタンスに、ぼくは強く心を打たれた。Let's keep on Bluesin' !!!

TEXT/YONEちゃん(Sunday, 21 March 1999)


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